会津若松市のグルテンフリーのお店・米粉パン・お土産
福島県会津若松市でグルテンフリーのお店を探している人へ。お店で食べる・持ち帰るときのポイントと、福島県会津若松市のオープンデータで見つかる地元の食の店やまちの情報を紹介します。
88スポット3オープンデータ
会津若松市でグルテンフリーのごはん・カフェ
会津若松市でお店で食べられるグルテンフリーのお店は、まだ投稿がありません。知っているお店があれば教えてください。
お店で食べるときの3つのポイント
- 予約のときに伝える:グルテンフリーにしたいこと、どのくらい厳しく避けたいか(少量も不可か)を先に伝えると、対応できるかを確かめてもらえます。
- 調味料にも注意:しょうゆ・ソース・カレールー・揚げ物の衣などにも小麦が使われていることがあります。
- 同じ調理場で作っているか:揚げ油や調理器具を小麦の料理と分けているかで、混入の心配が変わります。
会津若松市でグルテンフリーのパン・スイーツ・お土産
会津若松市で持ち帰り・お土産にできるグルテンフリーのお店は、まだ投稿がありません。知っているお店があれば教えてください。
持ち帰り・お土産を選ぶときの3つのポイント
- 原材料の表示を見る:小麦はアレルギー表示が義務の原材料です。袋や値札の表示、お店の案内を確かめましょう。
- 米粉パンでも確認を:米粉のパンでも、ふくらませるために小麦のグルテンを加えたものがあります。
- 専用の工房か:小麦を使わない専用の工房・工場なら、ほかの商品からの混入の心配が少なくなります。
会津若松市のオープンデータで見つける、地元の食とまちの情報
福島県会津若松市が公開しているオープンデータから、食の店・直売所・観光施設・相談先などを地図にまとめました。お店めぐりやお土産探しの寄り道に。
地元の食の店・直売所飲食店・パンや菓子の製造所・農産物直売所・道の駅・特産品など
- 会津武士道を中心とした会津の歴史、文化の伝承と発信を使命とする施設が「歴史感動ミュージアム会津武家屋敷」です。2300坪及ぶ会津藩家老西郷頼母邸はけやき・ひのき・杉材を使用した和様建築の豪華壮大な造りとなっており、表門に足を踏み入れると、そこからもうタイムスリップ、会津武士の生活が偲ばれます。他に歴史資料館、精米所、県重要文化財の陣屋や茶屋なども軒を連ね見どころ満載です。赤べこや起上り小法師の絵付けの体験コーナーもあり、弓道体験では的を射ぬくと景品をゲット出来ます。「お食事処・九曜亭」、福島・会津のいいものを集めた「郷工房・古今」へは見学せずに直接お入り頂けます。
出典:福島県会津若松市「推奨データセット05:観光施設一覧」(CC BY 4.0)を加工して作成
子どもの食・まちの見どころ学校給食・子ども食堂・観光施設・商店街など
- 鶴ヶ城は今から約630年ほど前に、その前身ともいえる東黒川館を葦名直盛が築いたのがはじまりと言われ、戊辰戦争では約1ヶ月に及ぶ激しい攻防戦に耐えた名城として、その名を天下に知らしめました。明治7年に取り壊されましたが、昭和40年に再建、平成12年には天守に続く建物「干飯櫓・南走長屋」が江戸時代の工法・技術を用いて復元されました。天守の内部は博物館となっており会津の歴史に触れることができます。平成23年には「赤瓦」へのふき替えが完了し幕末当時の姿を再現し、現存する天守閣では国内唯一の赤瓦の天守となっています。鶴ヶ城公園内は約69,000坪の敷地があり国の史跡に指定されています。駐車場は鶴ヶ城西出丸駐車場、鶴ヶ城南口駐車場、鶴ヶ城東口駐車場の3箇所がありそれぞれ有料となっております。
- 戊辰戦争のおり、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊が戸の口原合戦場から退却し、滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れして、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と、全員が自決しました。1人だけ生き残った 飯沼貞吉 によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなりました。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。
- 江戸時代の代表的な大名型山水庭園として国の名勝に指定されました。今から約600年前の室町時代、霊泉が湧出したこの地に、会津領主が別荘を建てたのが始まりといわれています。後に各種薬草を栽培する薬草園が設けられ、「御薬園」と呼ばれるようになりました。戊辰戦争時は、ここが新政府軍の療養所として使用されたため、戦火に巻き込まれずに往時の姿をとどめています。歴代藩主がこよなく愛した庭園で、歴史の香る癒しのひと時をお過ごし下さい。藩主も眺めた御茶屋御殿から当時の風景をしのびながら抹茶(有料)を頂くこともできます。
- 会津藩主蒲生氏郷の茶道の恩師千利休が自害したのち、氏郷がその子千少庵を会津に招き、茶道振興のため滞在させていたときに建てた茶室。明治7年に若松城解体の際、石州流怡渓派森川善兵衛が政府に願い出て自宅に移築し、保存されていましたが、平成2年に、元の場所である鶴ヶ城内に移築復元されました。 庭園を眺めながらお茶を楽しむことが出来ます。
- 参勤交代や領内巡視などの際の殿様の休息所。戊辰戦争の際に本営となり、白虎隊もここで命をうけて戸ノ口原戦場へと出陣していきました。茅葺きの屋根におおわれた書院づくりの建物は、国の重要文化財に指定され、御入御門、御座の間、御次の間などが当時の姿のまま残されており、さらに歴代藩主の愛用した身回り品、参勤交代の道具類、古文書なども保管されています。建物のあちらこちらには弾痕や刀傷があり、当時の戦いの痕跡をとどめています。
- 応永28年(1422)、会津にきた傑堂禅師が11代芦名盛信の建立により創立した寺。かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえました。のちに伊達氏の侵攻にあって焼けたため、芦名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみです。 天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したといいます。4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されます。また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。
- 「会津藩主松平家墓所」は、会津藩の二代藩主保科正経公から幕末の九代藩主容保公までが葬られており、昭和62年5月に国の史跡に指定されました。初代藩主の保科正之公は猪苗代町の土津神社に葬られています。このお墓は通称「院内御廟」と呼ばれ親しまれていますが、その面積は約15万平方メートルと広大で、墓域の中腹には西の御庭、中の御庭と呼ばれる藩主の家族のお墓があり、さらに石段を上がったところに藩主の墓があります。三代から九代藩主は全国的にも珍しい神式で葬送されており、構造もこの墓所独特のものになっています。新緑の時期や紅葉の時期に、散策をかねてのお参りをする人も多いスポットです。
- 阿弥陀寺内にある御三階はかつては鶴ヶ城本丸内にあった建物です。外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。明治3年本丸にあった鶴ヶ城御三階は阿弥陀寺にうつされ、仮本堂として使用されました。また阿弥陀寺には、戊辰戦争戦死者が埋葬(東軍墓地)されており、斉藤一の墓、萱野権兵衛遥拝碑もあります。
- 新選組殉難の地。母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと会津に留まろうとする斎藤一らに分かれました。このとき斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」(谷川史郎兵衛日記)と同意した隊士とともに会津へ残りました。明治元年(1868)年9月4日、城下に進出した新政府軍は、如来堂に立てこもる新選組を攻撃し激しい戦いを繰り広げました。このとき全員討ち死にしたとされています、実際は、斎藤一をはじめ数名が生き残りました。
- 宝雲山と号し、保科正之が会津に転封となった時会津に移転してきた「お供寺」の一つです。当時は慶山寺という無住の寺で、そこに山形より正之に従って会津入りした機外禅師が入って開山した由緒あるお寺です。礼法小笠原の祖、小笠原長時などの墓や本堂には幽霊の足跡があります。京都高尾・嵐山より移植した「大龍寺のかえで」や、目黒浄定作の庭園も見事です。
- 白虎隊の少年達も文武を学んだ藩校日新館は戊辰戦争で焼失し天文台跡が今に残る唯一の遺構です。基底12間余、台上方5間半、高さ3間半で、天文学習の観測場でした。天文学の授業でどれほど実測用に活用されたか不明ですが、冬至の日には、暦学家や天文師範などが集まって、明年の雲気候や、晴雨考を編んで官に提出しました。
- 御神徳養蚕守護の神として広く知られ、農、工、商、諸業繁栄、交通安全守神として信仰されています。境内の紅葉は、秋になるととても鮮やかな朱色に染まり、参拝に来た観光客の心を奪います。入口から歩いて進むと石の鳥居が立っており、さらに参道の途中にも赤い鳥居があります。またその奥にも寛弘七年(1010年)に植えられたと伝えられる御神木の峰張桜があり、観光客の記念撮影スポットになっています。
- 慶長5年(1600)会津領主上杉景勝は、鶴ヶ城の立地が山に近いことを危惧し、周囲が開けていて大川の水を利用できる神指原(こうざしはら)の地に築城を始めました。 しかし、この築城工事が徳川家康に上杉征伐の口実を与え、数ヵ月後の6月10日、家康の会津征伐が間近に迫ったことから工事は中止。神指城は工事途中のまま残され幻の城となりました。 面積は鶴ヶ城の役2倍の55ha。完成すれば奥州を代表する巨大城郭が出現するはずだった神指城ですが、現在では二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。
- 西郷頼母邸跡が鶴ヶ城正面の追手町にあります。西郷家は重臣(藩祖以来)で戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳(ちかのり)でした。頼母は田中土佐と共に会津藩主松平容保に京都守護職辞退を進言しました。そのため容保公から怒りを買い、家老職を解任されました。戊辰戦争がおこると、家老職に復帰し、白河口総督として、戦いますが、「白河口の戦い」で敗れ、会津へ戻ります。その後、長男・吉十郎を連れて会津から脱出します。西軍が城下町に乱入したとき、家族ら21人は、屋敷の中で辞世の句を残して自決しました。妻・千重子の辞世の歌「なよたけの碑」は墓とともに善龍寺に建っています。
- 鶴ヶ城の南東2kmほどのところにある小高い山(372m)で通称小田山公園と呼ばれています。山麓には葦名家ゆかりの名刹古跡があり、山頂には会津藩名家老田中玄宰の墓があります。鶴ヶ城を見下ろせるこの地の利は、戊辰の役では新政府軍に利用され鶴ヶ城への砲撃場所となりました。また、東北側の山腹には、若松第65聯隊・第29聯隊の実弾射撃がありました。現在は公園として整備され、四季を通じて散策が楽しめます。
- おけいは、会津藩軍事顧問のプロシア人、ヘンリー・スネル家の子守役でした。戊辰戦争後、スネルをリーダーとする会津藩士らとともにカリフォルニアに入植しましたが、開拓に失敗、移民団は離散してしまいました。残されたおけいは、アメリカ人に引き取られましたが、熱病にかかり、19歳の短い生涯を終えました。カリフォルニア州ゴールドヒルと同様の墓が背あぶり山にたてられています。
- いまに至る城下町の整備と産業を興した蒲生氏郷公の墓が会津若松市神明通りの東裏、興徳寺の本堂東側にあります。瑞雲山興徳寺は臨済宗妙心寺派の寺で、秀吉が奥羽仕置のため会津へきたとき三泊したほどの大寺院でした。墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔で、京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。墓前には、「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」の辞世の歌碑があります。会津史談会が昭和28年に氏郷公360年祭を記念して建てたものです。
- 会津領主、蒲生氏郷(がもううじさと)は若松の町割りを行い、城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠(外堀)と土塁で区切り16の郭門(かくもん)を設けました。この外濠は戊辰戦争後の明治4年に田畑にする条件で払い下げられほとんどが埋め立てられました。この甲賀町口の石垣はただ1つ残る郭門の一部です。
- 大塚山山頂に立地する全長114メートルの前方後円墳。福島県内2番目の大きさを誇っています。古墳全域が国の史跡になっており、出土品も一括して国の重要文化財に指定されています。完成時期は四世紀前半と言われています。発掘された副葬品は、東北で初めて出土されたものが多く、現在でも東北では会津大塚山古墳でしか出土していないものもあります。鶴ヶ城内の展示室では、その副葬品の一部を見ることができます。
- この塚には、寛永12年(1635年)12月17日以降,外人バテレンなど多数の キリスト教信者が処刑されたと記されています。蒲生氏郷はレオ氏郷の洗礼名を持つキリシタン大名であったため、知行地であった若松・猪苗代・南会津郡山・三春・白岩・糖沢・二本松・福島にキリスト教が広まりました。しかし、寛永9年(1632年)会津藩15人,白河藩13人,二本松藩14人,若松藩42人のキリシタンが処刑されています。
- 白虎隊士の飯盛山での自刃後、遺骸は埋葬を許されず、哀れに思った滝沢村の吉田伊惣治が、西軍の目を盗んで最初に埋葬した寺です。戊辰戦争のとき、会津藩が降伏後、藩主松平容保・親子が一ヶ月間謹慎した寺としても有名です。寺宝に日什上人直筆曼荼羅、釈迦涅槃像(刺しゅう)、田中正玄夫人使用什器などがあります。
- 会津高野山とも呼ばれる由緒あるお寺で、中央にある阿弥陀堂は昭和25年に国指定重要文化財・建造物に指定されました。空也上人により康保元年(964)に建立されたと伝えられ、文禄年間に再建されました。この地方には、古くから通称「木製五輪塔」と呼ばれる小さな塔に、亡くなられた親族の遺品などを入れて奉納し供養する、という今では全国でここだけに残る風習があり、一万四千点を超える五輪塔は、境内の舎利殿に納められています。8月の会津の高野山参り(会津地方に古く伝わる盆迎えの御参り)や空也念仏踊り(県重要無形民俗文化財指定)が有名です。
- 新選組副長土方歳三が滞在した宿。宇都宮城をめぐる攻防で足を負傷した土方歳三は、会津藩士秋月登之助が手配した当時格式の高かったこの宿屋に宿泊し、治療しました。このほか、1852年に吉田松陰が東北紀行の途中に宿泊しています。現在は大東銀行会津支店となっています。
- 会津藩主・保科正之の会津入部とともに建立され、保科家の元祖筑前守正則の霊を守る保科家の菩提所として発展してきた寺です。家老西郷頼母の妻千重子の”なよたけの風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ”戊辰戦争で花と散った会津婦道の精神を示すこの有名な辞世を昭和3年、「なよたけの碑」として善龍寺に建立されました。碑陰には戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦人名が刻まれています。 毎年5月1日に奈与竹墓前祭がおこなわれます。奥にある墓地には西郷頼母夫妻の墓や西郷邸で自決した「二十一人の墓」があります。
- 戊辰戦争で、柳橋付近で奮戦し戦死した娘子隊軍隊長中野竹子の碑。 昭和13年に会津若松市神指町黒川の湯川橋に建てられました。 出陣の際に薙刀に結び付けていたという辞世の句「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」が刻まれています。
- 大町の会津町方伝承館の近くにあり、戊辰戦争で会津に攻めてきた新政府軍のうち若松付近で戦死した将兵を埋葬しています。1868年の戊辰戦争では会津藩だけでなく、会津に来攻した新政府軍にも多くの犠牲者がでました。戦争で亡くなった薩摩、長州、大垣、肥州、備州など150名の人々が今も静かに眠っています。
- 古くは、不動堂と太子堂が並んでいたので 二堂村といわれています。 両堂の地名もこの二つの堂に由来しています。日本三所の不動明王と伝えられていますが、創建年代、 開山については定かでなく、 眼病に霊験あらたかで、伝説なども多く残っています。9月3日の例大祭には、夜店が並び賑わいを見せており、かつては、お籠り堂で願かけ籠りをしたり、玄如節のかけ合いなどをしたといいます。
- 会津藩家老・内藤家の屋敷跡で遠州流庭園としても名高い。明治以後は裁判所の前庭となっているが、昔の家老邸の名庭だった面影をとどめている。ヒマラヤスギ、トウカエデの高木、ゴヨウマツ、キャラボク、ツツジ等の多種の中低木で構成されている。鶴ヶ城玄関口の歴史的にも貴重な緑地である。
- 市内河東町藤倉集落の東に、源義経と皆鶴姫の悲恋物語を伝える碑があります。平家打倒を願う義経は、鬼一法眼の兵法書を学ぶために、義理の娘皆鶴姫に近づき恋仲になり、義経は兵法書をひそかに写し取ることに成功しますが、平清盛に気づかれ奥州へ逃げます。姫は、義経の後を慕って藤倉まで来ますが、追いつけないと知り、難波池に身を投げてしまいます。義経は、磐梯町の大寺でこれを知り姫を池のほとりに葬って墓を築いたとされます。義経に再会できず空しいままなくなった皆鶴姫は、他の人にはこのような別離の気持ちを味合わせたくないとして、参詣する人に良縁を授けると今日でも信じられています。
- 田村山古墳は全長24.85m、高さ2.15m程の前方後円墳です。1200年以上前に築かれ、東北では珍しい内行花文鏡、直刀などが出土しました。直刀は、県の重要文化財に指定されています。「古事記」に掲載された東北唯−の地名で、四道将軍伝説や坂上田村麻呂にまつわる伝説など、多くの謎を秘めています。
- 市内河東町の西南・藤倉集落にあり、この建物の屋根は唐様の重層建築で周囲に円柱で支えた裳階がつけられ二階建てのように見えるため、「藤倉二階堂」と親しまれています。徳一大師が建てたと伝えられて現在の建造物は、室町初期から中期の作といわれています。 昭和25年国指定重要文化財・建造物に指定。
- 今日に至る会津の姿の創設者ともいえる会津領主 蒲生氏郷 の嫡男、蒲生秀行の墓料です。蒲生秀行は蒲生氏郷と織田信長の娘とのあいだに1583年に生まれ、文禄4年(1595年)、父・氏郷が急死したために会津92万石を継いでいます。その後、豊臣秀吉の命令で宇都宮に18万石で移封されていますが、関ヶ原の合戦での功績などが徳川家康に評価されて、慶長3年(1601)再び会津60万石に復帰しています。慶長17年(1612)5月、30歳の若さでこの世を去り、この地に眠っています。県指定建造物、市指定史跡にもなっています。
- この土塁は蒲生氏郷が会津に入部し文禄元年(1592年)若松城の改築に着手した際に築造されたとされ、若松城の追手として最重要点でした。また、外郭と内郭を区画した若松城の土塁の遺構で市内に現存するものはわずかであり、貴重なものです。「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三ヵ所が国指定史跡若松城跡として追加指定を受けました。春になるといち早く桜が咲き誇り、通りを通る人々の目を楽しませるスポットです。
- 蒲生時代からの一等地で、上杉景勝の執政 直江兼続もここに住まいしていました。関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢に移されました。また、後に江戸時代の代表的兵学者、山鹿素行が生まれた場所でもあります。素行の誕生地を記念した碑石は地元の自然石で「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれています。素行は幕末の思想家達に与えた影響も大きく、また討ち入りで有名な赤穂義士を教育した人物でもあります。
- 戊辰戦争時、長岡城落城後、長岡藩藩士山本帯刀を隊長とする一隊は八十里峠の難関を越えて会津に入り奮戦しました。しかし早朝の濃霧の中飯寺河原で新政府軍に包囲され、隊長以下44名が戦死しました。明治23年村民が供養の碑を建てて霊を弔いましたが、その後昭和31年会津史談会が新たに殉節の碑を建てて供養しました。長岡藩士殉節のある本光寺は来迎山と号し、天平12年(740)開基、開山は行基菩薩と伝えられています。
- 会津の中世を400年にわたって支配していた葦名家三代の廟所です。奥州を代表する戦国大名になった名君16代盛氏、葦名家の全盛期を築き上げた名君17代盛興、若いながら優れた武将と誉れ高い18代盛隆との三基並んだ五輪塔で、空風火水地の五文字が刻されています北側にもう一つの墓(氏名未詳)がありますが、この辺は「花見ヶ丘森廟」と呼ばれ、葦名氏11代〜19代の墓地だったと思われます。またこの南の小田山中には3代〜9代の墓があって「寿山廟」と呼ばれていましたが、現在はよく判りません。
- 会津藩家老で三代の藩主に仕えた名宰相。34歳で家老に任じられた際、会津藩は天明の大飢饉でした。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済について研究し、一年後復権の際に藩政の大改革「天明の改革」を提言し大きな成果をあげました。また、藩校「日新館」を創設、会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築きました。会津藩樺太出兵の最中、61歳でこの世を去りました。「わが骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と遺言し、墓はそれらの見渡せる小田山の山頂にあります。
- 佐川官兵衛は天保2年(1831年)生まれ。明治10年(1877)没。文武両道に秀で、会津藩京都守護職時代には学校奉行・別選組隊長・諸生組隊長を兼ね、「鬼佐川」「鬼官兵衛と呼ばれていました。鳥羽伏見の戦いで奮戦、戊辰戦争の北越戦では会津軍指揮として、長岡藩河井継之助らと共に各地に転戦。戦後明治7年に警視庁の巡査に応募、明治10年の西南戦争には警視隊隊長として参戦し黒川村で戦死しました。この顕彰碑は平成13年に建立。西南戦争で佐川官兵衛が戦死した地である、熊本県南阿蘇村よりゆかりの大石を譲り受けて建立されたものです。
- 洪水のとき流れつき、昆沙門洞の湧水にうかびあがっていたのを多門院中興の僧本行が拾いあげ、本堂に安置したものと伝えられています。 高さは1m程の寄木造りで、布張に漆をかけ、金箔をおいた極彩色のこの像は、江戸時代の作と推定されています。
- 慶長5年(1600)会津領主上杉景勝は、鶴ヶ城の立地が山に近いことを危惧し、周囲が開けていて大川の水を利用できる神指原(こうざしはら)の地に築城を始めました。 しかし、この築城工事が徳川家康に上杉征伐の口実を与え、数ヵ月後の6月10日、家康の会津征伐が間近に迫ったことから工事は中止。神指城は工事途中のまま残され幻の城となりました。 面積は鶴ヶ城の約2倍の55ha。完成すれば奥州を代表する巨大城郭が出現するはずだった神指城ですが、現在では二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。
- 阿弥陀寺内にある御三階はかつては鶴ヶ城本丸内にあった建物です。外観上は三階ですが、内部が四層になっており密議の場所として使用されたといわれています。明治3年本丸にあった鶴ヶ城御三階は阿弥陀寺にうつされ、仮本堂として使用されました。また阿弥陀寺には、戊辰戦争戦死者が埋葬(東軍墓地)されており、新選組 斎藤一の墓(※藤田家の墓)、萱野権兵衛遥拝碑もあります。 ※斎藤一は会津戦争後、藤田五郎と改名。
- 西郷頼母邸跡が鶴ヶ城正面の追手町にあります。西郷家は重臣(藩祖以来)で戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳(ちかのり)でした。頼母は田中土佐と共に会津藩主松平容保(かたもり)に京都守護職辞退を進言しました。そのため容保から怒りを買い、家老職を解任されました。戊辰戦争がおこると、家老職に復帰し白河口総督として、戦いますが「白河口の戦い」で敗れ、会津へ戻ります。その後、長男・吉十郎を連れて会津から出ます。新政府軍が城下町に乱入したとき、家族ら21人は、邸宅で辞世の句を残して自決しました。妻・千重子の辞世の歌「なよたけの碑」は墓とともに市内善龍寺にあります。
出典:福島県会津若松市「推奨データセット05:観光施設一覧」(CC BY 4.0)、福島県会津若松市「会津若松市内の観光史跡情報」(CC BY)を加工して作成
まちの施設公共施設・子育て施設など、その自治体が公開している施設の一覧
- 名子屋町児童公園
- 住吉児童公園
- 中央児童公園
- つばくろ公園
- 諏訪公園
- 小田垣公園
- 駅前公園
- 薬師公園
- 七日町公園
- 材木町公園
- 緑町公園
- 金川町公園
- 大町中央公園
- 大町白虎公園
- 日新町公園
- 大川幼児公園
- 居合1号公園
- 石堂町公園
- 黒岩公園
- 城西町公園
- 愛宕山公園
- 千石さくら公園
- 飯盛1号公園
- 松長1号公園
- 松長2号公園
- 西栄町公園
- 石高公園
- 松長3号公園
- 松長4号公園
- つるかめ公園
- さつき美咲公園
- 五月町わんぱく公園
- 中央公園
- 昭和公園
- さくら公園
- 亀公園
- 高塚公園
- 千石東の杜公園
- 東台公園
- 水季の里公園
- 扇町2号公園
- 松長緑道
- 松長1号緑地
- 滝沢13号緑地
- 赤ベコ公園
出典:福島県会津若松市「072028_福島県_会津若松市_公園・スポーツ施設」(CC BY)を加工して作成
このページで使っているオープンデータ
- 福島県会津若松市「推奨データセット05:観光施設一覧」ライセンス:CC BY 4.0/更新:2021-08-12データのページ
- 福島県会津若松市「会津若松市内の観光史跡情報」ライセンス:CC BY/更新:2026-04-16データのページ
- 福島県会津若松市「072028_福島県_会津若松市_公園・スポーツ施設」ライセンス:CC BY/更新:2020-02-04データのページ
上のデータをグルテンフリーマップが加工して作成しています(位置・名前の表記をそろえ、関係する項目だけを表示)。内容は各データの公開時点のものです。